名古屋城の金鯱4度の盗難事件と怪盗・柿木金助の処刑場そして墓地

名古屋城のシンボルともいえる金の鯱(しゃちほこ:以下、金鯱)。創建当時は金の純度も高く、現在の価値だと一対で約28億円のお宝でもありました。(現在は約11億5千万)

>>名古屋城の金鯱価値の試算

天守の上にお宝が乗って輝いている…これだけ高価な金鯱ですから、盗人をシゲキしないわけはありません。実は名古屋城の金鯱は記録に残るだけでも4回盗難被害に遭っています。その詳細をチェックしてみました。

明治四年(1871)

廃藩置県の年。名古屋城の金鯱は一匹は宮内省に献上、もう一匹はオーストリアのウィーン万国博覧会に出展されるために天守の屋根から降ろされて保管されましたが、この時に陸軍名古屋分営の番兵がウロコ三枚を盗み極刑に処せられました

【Q】他の事件との間違い?
鎮台条例が制定されたのは明治六年(1873)7月19日なので、この時はまだ陸軍名古屋分営は存在せず、他の盗難事件と混同されたという指摘があります。

明治九年(1876)

27歳の容疑者が東京博物館に保管中のウロコを3枚盗み捕縛。懲役10年に処せられた。

明治十一年(1878)

市民の要望がいれられ、宮内省から金鯱が変換されることになり、その復元作業中にシャチの一部が盗まれた。容疑者は陸軍名古屋鎮台の兵卒と報道されましたが、シャチのどの部分が盗まれた、また容疑者の処分については非公開。軍秘として公表をさけたといわれています。

昭和十二年(1937)

大阪在住の犯人が天守に設けた実測調査用の足場を利用して天守に登り、オスの鯱のウロコ112枚のうち、58枚を剥ぎ取り逃走。約2週間後に逮捕され懲役10年に処せられた。

怪盗・柿木金助

この4件の盗難事件とは別に江戸時代に大凧(おおだこ)に乗り名古屋城の金鯱のウロコを盗んだ怪盗・柿木金助(かきのききんすけ)の伝説があります。

この話は伝説ですが、柿木金助は実在した人物。尾張国中島郡柿木島村(現在の稲沢市井之口柿ノ木町)生まれと伝わります。正徳二年(1712)大凧に乗って名古屋城の金鯱の鱗を盗んだといわれていますが、この話は伝説であり、実際には名古屋城本丸の土蔵に侵入し、舟を使って逃走しました。

宝暦十三年(1763)8月21日、名古屋の町を引き回しのうえ、尾張藩の刑場・土器野(かわらけの)で磔獄門に処せられました。

柿木金助の処刑場

柿木金助が処刑された尾張藩の刑場・土器野(かわらけの)は、現在の清須市土器野にある瑞正寺の北側、名鉄・新川橋駅のすぐ南です。この瑞正寺は刑場に消えた罪人を供養するための寺で、これから処刑されるために刑場に向かう罪人たちが祈りを捧げた寺でもあります。

>>瑞正寺の地図

柿木金助の墓

柿木金助の墓地は岐阜市福光西2丁目の太田西墓地にあります。地元に伝わる話だと、かつて太田西墓地の西南にあった畑の中に五輪塔らしい部分が出ていました。地元ではこれが柿木金助の墓といわれており、昭和43年の土地区画整理で発掘したところ、五輪塔が出てきました。それを現在は地元の方々が手厚く供養されています。

私の感想ですが、名古屋城の天守の上に輝く金鯱は、歴史を通して人々を魅了した証拠だと思います。現代ではたまに金鯱が地上に降ろされて、一般人でもタッチできるイベントが行われます。次の機会が楽しみです。

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