名古屋城主の脱出をサポートする専門集団の御土居下同心たちが住んでいた屋敷跡

愛知県や名古屋市の城跡、歴史史跡を探訪する会・愛知ウォーキング城巡りクラブで名古屋城の周辺を巡ってきました。

その時紹介した、名古屋市中区三の丸に残る御土居下同心(おどいしたどうしん)屋敷跡は、名古屋城が有事の際に城主を脱出させるために要しされた専門集団が住んだ屋敷跡です。

>>屋敷跡の地図

【現地看板より】

御土居下同心屋敷跡

この地は城の鶉口(うずらぐち:城内からの非常脱出口)に当たるところで、尾張藩はここに同心屋敷を置き、譜代の同心を住まわせていた。彼らは御側組(おそばぐみ)と称し、表向きは藩主の側近として仕えていたが、万一非常の場合は、藩主を護衛して木曽路に脱出させるという極秘の使命が課せられていた。

組員は十八名に限られ、世襲であって、世間との交渉はなかった。藩主の側近であったため高度の教養を積み、文武に優れた逸材が多かった

名古屋市教育委員会

伝わる脱出プラン

名古屋城主は二の丸御殿で生活していました。その二の丸には名古屋城の北の水堀に出ることができる埋御門(うずみごもん)があり、ここからまず水堀に移動するのです。

埋御門を裏から見ると、脱出口の跡が残っていることがわかります。今では石で埋められていますが、ここから北の水堀に出ることができました。

水堀を渡り上陸して、用意された脱出専用の駕籠(かご)に乗って、瀬戸の定光寺(初代藩主・徳川義直の廟所)を経由して、当寺尾張藩領だった長野県の木曽へ抜ける脱出ルートがあったそうです。その脱出劇をサポートするのが御土居下同心組(おどいしたどうしんぐみ)でした。

その同心たちが住んだ屋敷跡は開発が進んで面影もありませんが、名古屋市が立てた説明看板があります。私の感想ですが、世に知れていない、いわば名古屋城の影の軍団みたいな人たちですが、歴史ドラマみたいな組織がホントに存在していたことに驚きました。

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