愛知県の城や戦国史跡を巡る歴史の会・愛知ウォーキング城巡りクラブで名古屋城の見学会に行った時のこと。能楽堂の前に加藤清正の銅像がありますが、すぐ側に等間隔に穴が空いた石が置いてあります。じつはこれ、篠島を含む三河湾で採れる、石垣に適した幡豆石(はずいし)なのです。
篠島から持ってきた石
石の看板には篠島の矢穴石と書かれています。篠島を含む三河湾では石垣に適した花崗岩(かこうがん)が採れ、清正だけではなく、池田輝政、福島正則、毛利秀元、田中吉政など複数の大名が石を切り出したことが分かっています。その中で清正が採石していたのが篠島です。
篠島の石切り場
篠島に行くとこの石切り場は観光名所のひとつになっています。まずは海岸に残る矢穴石。清正の枕石、もしくは忘れ石といわれています。
森の中にも見学可能な石切場跡があります。ところでなぜこれらの切り出されなかった石が残っているのかという理由について。名古屋城の工事担当の現場で、石垣工事がほぼ終わりかけた時でも、石垣の石はどんどん運び込まれていました。
今ならLINEやスマホで『石はもう必要ないよ』とすぐに連絡もできるのでしょうけれど、当寺はそれがなく、使者が馬に乗り師崎(もろざき:知多半島先端の岬)まで行き、そこから船で篠島に渡り、各石切場に伝達という方法でした。
でも石切場では急ピッチで採石されていたのです。だからタイムラグというか、伝達のズレで石垣不要が言い伝えられ、結果、そこに矢穴石が残されたというわけです。
清正が担当したのが大天守台
ちなみに加藤清正が名古屋城築城時に担当した区域は名古屋城大天守の天守台です。この扇の勾配(おうぎのこうばい)は、上に行くほど角度が急になるという特殊な積み方で、登りにくさはもちろん、見てても芸術の域だと思います。
私の感想
私の感想ですが三河湾や篠島、また岐阜や瀬戸内海からも名古屋城の石垣の石が運ばれたといわれているので、その工事の規模に驚きました。この篠島の矢穴石は入城する正門に入らずに見ることができるので、名古屋城を訪れた際には是非、チェックしてみて下さい。