明治に名古屋城を取り壊しから守った中村重遠大佐とは?顕彰碑が姫路城にある理由はなぜ?

名古屋城は明治に取り壊される危機を迎えたことがありました。それを中止させたのが当時の陸軍大佐・中村重遠(なかむら しげとお)氏です。

明治時代になると西洋から新しい文化が日本にどんどんやってきました。

●新しいもの=良いもの

●古いもの=悪いもの

この様な風潮になったとか。そこで『旧物破却』が進められ、日本中で城がどんどん壊されていきます。これは庶民の感情というより明治政府の方針でもあったのでしょう。

そんな中、明治三年(1870)なんと名古屋藩知事で元尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ:14代藩主)が、名古屋城の取り壊しを発議、それが議会で決定してしまうのです。それに『待った!』をかけたのが駐日ドイツ公使だったフォン・ブラント氏でした。これにより名古屋城取り壊し案はとりあえず無くなったのですが…

取り壊しが再燃!その理由とは

明治十年(1877)に名古屋城取り壊し案が再び浮上します。理由は西南戦争(※)後、全国で城の存続問題が再燃。また膨大な保存や修理の維持管理費の問題もあったのでしょう。そんな時に取り壊しに待ったをかけたのが中村重遠大佐でした。

西南戦争とは

明治十年(1877)熊本県中心の九州南部で起こった西郷隆盛を盟主にした旧武士の武力反乱。西郷隆盛の薩摩軍は熊本城を拠点とするために攻めるが落とせず、新政府軍に圧迫され鹿児島で壊滅した。

陸軍で負担しますので

中村重遠大佐は明治十一年(1878)、『名古屋城や姫路城は古来の築城の貴重な遺産として保存すべき』と保存を上申。これにより保存や修理にかかる維持管理費は陸軍省(当時)で負担することになり、翌年保存が決定されました。

顕彰碑は姫路城にある

そんな中村重遠大佐の顕彰碑は姫路城にあります。姫路城も中村大佐の提案で取り壊しを免れた城のひとつだからでしょう。

>>姫路城の中村大佐の顕彰碑地図

ここで素朴な疑問なのですが、なぜ名古屋城に中村大佐の顕彰碑が無いのか?この理由はよく分かりません。これは私の仮説ですが中村大佐は純粋に城を保存したいと思っており、自己を顕彰することもなかったので、あまり知られていないだけではないでしょうか?

でも今日、私達が名古屋城を楽しむ事ができるのも中村重遠大佐のおかげでもあると思います。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする