名古屋城西北隅櫓は清洲城天守を移築したものなのか?見学会に行った感想

名古屋城御深井丸(おふけまる)に建つ西北隅櫓は清洲櫓(きよすやぐら)の別名があります。その理由は清洲城が廃城になったあと、清洲城の天守をまるっと移築して名古屋城の櫓にしたという伝承があるからです。なぜそんな伝承があるのか?そして事実はどうなのかという疑問を説明します。

>>西北隅櫓の地図

解体修理で分かったこと

これは御深井丸側(つまり名古屋城側)に建つ看板。これを読むと清洲城の天守をそのまま移築したのではないことが説明されています。

またこの看板の補足ですが、西北隅櫓は昭和三十七~三十九年(1962~64)にかけて解体修理が行われたのですが、発見された墨書から元和四年(1618)九月以後、尾張徳川家の大工頭・沢田庄左衛門によるものであることが判明しました。

この時、他の建物から転用(てんよう:リサイクル)された木材が使われ、それも複数の木材が含まれていることもわかりました。清洲城、または清洲城下の寺社などの古材は利用されたかもしれませんが、清洲城の天守を丸ごと移築したわけではないことがこの時確定しました。

そして内部

西北隅櫓は年に1度ほどですが、期間限定で内部公開されています。展示物は少なく構造を楽しむ企画です。

少ない展示物の中でインパクトが大きかったのがこの胴木。名古屋城東門の東側の石垣下に敷いてあった木材です。平成6年(1994)の台風で石垣が崩れ、根石(ねいし:最下部の石)の下から出ました。石垣を築く時、この胴木を敷き、その上に石を積み上げていくのです。いわば石垣の土台になる木材です。

腐食が激しいものもあり、石垣崩落の一因と考えられています。材質は松。

柱をよく見ると鉄のボルトで補強してありました。重要文化財に指定されている西北隅櫓ですが、建物を維持させるためには、このような補強も必要ですね。

城を守る視点

最上階の3階から外を見渡すことができます。名古屋城は細長い台地の上に建っており、北と西は低くなっています。つまり敵はこの低い場所から名古屋城を攻めるしかないということ。敵側から見ても、かなりのインパクトがある西北隅櫓です。

見学会で出た意見

以前、愛知県の城や戦国時代の史跡歩きをしている歴史の会で名古屋城の外堀周辺から西北隅櫓を見学した時のこと。この時に出た感想で圧倒的に多かったのは『こんな外堀沿いから櫓を見たのは初めて』というものでした。

確かに城内から見る人は多いのでしょうけれど、あえて外側から見ると攻める敵の目線で名古屋城を見ることができます。城は周辺にも面白い視点がたくさんあるものですね。

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