名古屋市中区の納屋橋近くに銅像が立っています。これは戦国武将・福島正則です。なぜこんな所に福島正則の銅像が立っているのかというと、福島正則が堀川の開削総奉行だったから。わかりやすく言うと、堀川を掘る責任者だったワケです。
堀川は人工の川だった
名古屋市中心部を流れる堀川は、慶長十五年(1610)に名古屋城が築かれた時、合わせて掘られた人工の川です。一説にはここに小川があったそうですが、それを拡張、整備した総責任者が福島正則でした。
なぜ掘った?理由は
堀川を掘った主な理由の1つ目は堀として。名古屋城が築かれた慶長十五年(1610)はまだ大坂に豊臣氏が健在でした。もしかすると西国の諸大名を引き連れて江戸に攻め込む可能性があったので、名古屋城はそれを防ぐためにも築かれたのです。そこで西側を守るために堀川ほ堀って、堀代わりにしました。
もうひとつの理由は運河。堀川は熱田湊(みなと)まで繋がっており、湊で陸揚げされた物資を城下町や名古屋城に運ぶために堀川を運河として活用したのです。
掘り始めは洲崎神社
堀川はどこからどの様に掘られたのか?その手がかりが中区・洲崎神社にありました。洲崎神社の入り口に堀川初開削の地という説明板もあります。この洲崎神社をから掘りはじめ、南北に掘っていったと考えられています。
福島正則ゆかりのデザイン
堀川に架かる納屋橋の欄干(らんかん)には、福島正則の紋である、中抜き十文字のデザインが施されています。これは正則が堀川に深く関わっているという意味で作られているのです。是非チェックしてみましょう。
顕彰もチェック!
名古屋発展の礎 福島正則公
福島正則公は永禄4年(1561)に現在の愛知県あま市で、大工の息子として生まれた。若くして豊臣秀吉公に仕え、賤ヶ岳の戦いで手柄(七本槍の筆頭)をたて、出世の端緒をつかんでいる。加藤清正公とともに秀吉公の子飼いの武将として活躍し、35歳で24万石の清須城主となった。関ヶ原の合戦では東軍に加わり、40歳で広島などを領有する50万石の大名にまで出世し、慶長15年(1610)の名古屋城築城の時を同じくして、正則公により堀川が開削された。
しかし水害の遭った広島城を勝手に修繕したという口実で、元和5年(1619)に4万5千石の高井野藩(現:長野県高山村)に改易され、失意のなか寛永元年(1624)に64歳で亡くなった。
正則公が開削した堀川は、女医うかへの幹線輸送路や身近な憩いの水辺として人々の暮らしを支え、明治になると沿川には多くの工場や製材所ができ、行き来する船や筏が工業都市名古屋を支えてきた。このため堀川は『名古屋の母なる川 堀川』と言われている。
しかし昭和30年代(1955~64)からトラックが普及して静かな水面となり、今は都心の貴重な憩いの水辺として親しまれている。
撰文 伊藤正博
名古屋城検定での出題は?
この堀川と福島正則の関係は名古屋城検定でもたびたび出題されます。ポイントで言えば『堀川はだれが掘ったのか?』というキリクチで出題されることが多いです。過去問を調べてみると以下のような出題があります。
名古屋城の築城が始まったころ、名古屋城には軍事や城下町の発展に欠かせない川が流れていませんでした。そこで、家康は急きょ川を掘らせることにしました。堀川の造成を任された人物は誰でしょう。
(1)山下氏勝
(2)加藤清正
(3)福島正則
(4)牧 助右衛門長勝
第13回名古屋城検定 初級
私の感想
私の堀川と福島正則の感想ですが、福島正則は武勇だけの戦国武将というイメージでしたが、街づくりに重要な土木技術にも長けてる人物だと思いました。戦国武将や城巡りで名古屋市を訪れた時には、この堀川に立つ福島正則の銅像もチェックしてほしいと思います。