なぜ尾張藩七代藩主の徳川宗春の墓が千種区の平和公園にある?その理由とは

名古屋市千種区の平和公園に尾張藩七代目藩主・徳川宗春の墓があります。尾張徳川家の墓所といえば名古屋市東区の建中寺(けんちゅうじ)というイメージですが、なぜ離れた千種区の平和公園にあるのか?じつは深いワケがありました。

平和公園にある徳川宗春の墓

徳川宗春の墓は平和公園の中央より東側の丘陵地帯にあります。虹の塔の近くです。

>>徳川宗春の場所の地図

平和公園に墓碑がある理由

現地の看板には次のように記載されています。

尾張藩七代藩主 徳川宗春公 元禄九年~明和元年(1696~1764)

八代将軍徳川吉宗公と同じ時代を行きた人物です。当時の徳川幕府が掲げた『質素倹約』という政策は必要としながらも、規制緩和により縮小されていた祭りを復興させ、芸能を大いに許すなど人々の生活に努め、農民の収入を増やすなどして現在の名古屋の発展の礎を築きました。

『温知政要』(おんちせいよう)という書物に基本政策理念二十一箇条を著し、どの時代でも立派に通用する政策を唱えて実行した、先見の明のある殿様です。

その宗春公のお墓が第二次世界大戦のおり、名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け一部が損壊してしまいましたが、2010年7月8日、多くの市民のご協力により墓碑修復が完了しました。当時から月日を重ねた現代に至るまで、市民から大変愛される殿様だったことがうかがわれます。

文:南山大学教授 安田文吉
墓碑修繕業者:(有)藤沢事務所 藤沢豊治

宗春ロマン隊

建中寺は太平洋戦争中の昭和二十年(1945)、名古屋大空襲に遭い、徳川宗春の墓に焼夷弾が命中して損傷しました。そこで平和公園に移転し平成になってから修復されたのです。

修復前後の様子

徳川宗春の墓碑の修復前と修復後を比べるとこの通り。墓碑の欠けていた部分を埋めて修復してあります。

私の感想

私の徳川宗春の墓の感想ですが、建中寺ではなく千種区の平和公園にあるのは以外でした。でも墓碑修復の時に多くの名古屋市民の方々が寄付を行ったというのは、今でも徳川宗春は名古屋市民に親しまれている証拠だと思います。

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