尾頭橋は江戸時代の佐屋街道に架かった官道で堀川七橋のひとつ

名古屋市熱田区にJR尾頭橋駅があります。その駅名の由来になったのが江戸時代に堀川に架けられた尾頭橋です。現地にはちょっとした公園があり説明看板もあります。

 佐屋街道が通った尾頭橋

尾頭橋は東海道の脇往還である佐屋街道が通り、多くの旅人が渡った橋である。熱田宿と桑名宿の間は七里の渡しが結んでいたが、風があるといやな船酔いをするし、海が荒れると船が出ず旅の日程が遅れてしまう。

このため寛永十一年(1634)に熱田から佐野まで陸路を行く佐屋街道が整備された。そのきっかけは三代将軍の徳川家光が京都へ行った帰りに通行するためであった。その頃はここより少し下流の瓶屋橋付近を通るルートだったが、寛文五年(1665)にここへ橋が架けられ、翌年には官道になった。新たに架けられた橋なので新橋とも呼ばれ、江戸時代には堀川に架かる一番下流の橋であった。

熱田から佐屋までは6里(24km)で、岩塚・万場・神守・佐屋の4つの宿場が設けられ、佐屋から桑名までは、川を船で行く三里の渡しを利用した。江戸と京・大阪などを行き来する商人や、伊勢参りなどに行く庶民もたくさん通ったが、外国人や身分の高い人もこの街道を利用している。

文政九年(1826)にオランダ商館の医師だったシーボルトが、江戸参府の時にこの橋を渡っている。幕末の文久三年(1863)には、勅許を得ずに開国した幕府と朝廷の融和を図るため、14代将軍の徳川家茂(いえもち)がここを通り上洛した。将軍が京都に行くのは3代将軍家光以来229年ぶりのことであった。

その5年後の明治元年(1868)には政権を掌握した明治天皇が東京へ向かう時と京都へ帰る時に、さらに翌2年に再び東京へ向かう時、この橋を通っている。長年活用された佐屋街道だが、明治5年に新田地帯を通る前ヶ須街道(新東海道)が開かれて役割を終え、尾頭橋を渡る旅人は減っていった。

江戸時代の橋は、幅が約3間(5.4m)で長さが約17間(30.6m)の高欄付木橋であった。気は腐りやすく何度も架け替えられているが、昭和13年(1938)にコンクリート橋、平成6年(1994)に現在の鋼製桁橋になった。

かつての佐屋街道

現地の説明看板には分かりやすい佐屋街道の地図で説明してあります。熱田宿(宮宿)から名古屋城に向かっている道が美濃路(みのじ)。その美濃路から西の佐屋川に伸びているのが佐屋街道です。分岐点近くに架かる橋が尾頭橋。

現在ではビルやマンションだらけの街中ですが、かつてはノンビリした風景が広がっていた様です。私の感想ですが、鋼製桁橋に進化した尾頭橋でも昔のままの名前で続いていつのは歴史を感じました。またJRの駅名にもなった橋が本当にあるのはちょっとした驚きでした。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする