熱田魚市場は戦国時代にはすでにあり清洲まで魚を運んでいた!その場所とは

名古屋市熱田区の熱田魚市場とは、室町時代に開かれた魚市場で、江戸時代の東海道宮宿の魚市場の跡です。

■熱田魚市場の住所■

名古屋市熱田区大瀬子町

>>熱田魚市場の場所の地図

現地看板

熱田魚市場跡

東海道『宮の宿』に栄えた魚市場。天正年間(1573~)にはすでに魚問屋があり、織田信長の居城清洲に日々、魚介類を運んだといわれる。寛永年間(1624~)尾張藩政のもとに、木之挽(きのめ)、大瀬子(おおせこ)に四戸ずつ問屋ができ、市場が開放された。以来藩の保護により、近海はもとより遠国からも魚介が運び込まれ、毎日取引が行われた。

名古屋市教育委員会

※大瀬子の読みは おおせこ

※木之免の読みは きのめ

そしてモニュメント

熱田魚市場が現在の熱田区大瀬子の大瀬子公園一帯にあったといわれており、現在では住宅地が広がっています。その中で大瀬子公園近くにある熱田魚問屋モニュメントは、当時の様子がわかりやすく解説されています。

 熱田魚問屋モニュメント

大瀬子公園の辺りにはかつて熱田魚市場がありました。このモニュメントは、魚問屋として使われていた建物の保存部材を活用して庇(ひさし)の一部分をイメージしたものです。明治初期の建築で、規模も大きく、庇は5本の柱を並べた幅約18mの広大な作業空間であり、熱田の魚問屋の面影を伝える建物でした。柱には魚の扱いなどに用いた手かぎの痕が残っています。

案内看板にある手かぎ。大きな魚を移動させる時に使う道具で、魚に差して引きずります。床に置いておくと踏んだ時にケガするので柱に差しておくのです。

 熱田魚市場

室町時代には、熱田で魚の市が開かれており、織田信長の居城であった清須城(清洲城)に魚を運んだといわれています。江戸時代には、大瀬子(おおせこ)と木之免(きのめ)に魚問屋が設けられ、魚は問屋を経て市場で売買されました。尾張名所図会『熱田の濱(はま)夕上り魚市』には、江戸時代末期の夕方の熱田魚市場の様子が描かれています。市は、朝と夕の2回に開かれ、大変にぎわっていました。

【Q】尾張名所図会とは

尾張名所図会(おわりめいしょずえ)とは江戸時代の尾張地方の名勝(景色がよい場所)や史跡などを絵と文章で紹介した本。現代でいうと観光雑誌みたいなもの

現地案内看板にある尾張名所図会の熱田の濱 夕上がり魚市の図。大勢の人で賑わっていますね。現在では魚市は早朝のイメージですがかつては夕方にも行われていたことがわかります。

織田信長と明智光秀が出会った場所なのか?

これは完全にフィクションの話です。私がこの熱田魚市場を訪れてふと思った感想は、大河ドラマの1シーンに描かれた場所なのかというものです。

その理由は、令和二年(2020)NHK大河ドラマ・麒麟がくるで織田信長と明智光秀が尾張熱田の魚市場みたいな場所で出会いましたが、もしかするとこの熱田魚市場を再現したものだったのかもと思いました。

>>信長と光秀の出会いのシーン | マイナビニュース

この時、織田信長(染谷将太さん)は、船で沖から現れ、市場みたいなところで魚をさばき、人々に売っていた時に明智光秀(長谷川博己さん)と初めて話をするという設定でした。まあ、大河ドラマなのでフィクションですが、戦国時代にはすでに熱田に魚市場があったのは事実で、その場所でもある現在の大瀬子公園と周辺も賑わっていたのです。

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