名古屋市中村区水主町の読みは(かこまち)地名の由来は師崎の千賀水軍だった!

名古屋市中村区名駅南3丁目辺りを歩いていると、水主町という信号名を目にします。この地名の読みはかこまちです。普通に読むと『しゅすいちょう』、『みずぬしちょう』でしょうか。でも読みはかこまちなのです。地名の由来の水主(かこ)とは、船の乗組員である水夫のこと。つまり船乗りが多く住んだ町なのでこの地名が付きました。

なぜ船乗りが多く住んだのか?その理由

戦国時代以前から現在の知多郡南知多町師崎(もろざき)の海に勢力を持っていた水軍がいました。それが千賀(せんが)水軍です。戦国時代には徳川氏、尾張藩に仕え船奉行になります。堀川端に屋敷を構えた千賀氏は多くの船頭や水主、船大工を抱えて堀川そして伊勢湾に睨みを利かせたのです。その配下の水主(かこ)たちが住んだのが中村区の水主町。

これは水主町東公園にある水主町の地名の説明板。これを見ると昭和56年に区画整理が行われ、その時に地名も変わったことがわかります。

それでも今も残る地名

現在、水主町という住所や地名は行政上無くなりましたが、地元にはかつての水主町の名残が多くの残されています。

市バスのバス停も水主町(かこまち)。住所は中村区名駅南3丁目なのですが、地元ではこれで通用します。

郵便局も同じ。住所は中村区松重町ですが名古屋水主町郵便局。

かつて水主(かこ)と呼ばれていた水夫たちの町はどんな風景が広がっていたのでしょうか?今では普通に街中です。

親分はここにいた!

水主たちをまとめていた千賀氏は江戸時代にどこに住んでいたのか?それは水主町から堀川の対岸(つまり東)現在の洲崎神社がある場所です。その根拠ですが、文化十年(1813)に描かれた名古屋御城下絵図(愛知県図書館蔵)に現在の洲崎神社がある場所に千賀与八郎同 虎吉の屋敷が記載されているからです。


地図で水主たちが住んでいた水主町から千賀氏の屋敷があった現在の洲崎神社を見てみると現在で徒歩10分ほどです。

この洲崎神社は戦国時代の天文年間(1532~1555)に廣井城があった場所。また名古屋城築城時に福島正則が堀川を開削しますが、この場所あたりから掘られたことが書かれています。あと湊があったことも重要なポイント。

私の感想

水主町付近の堀川。ここに多くの船があり、水主たちの仕事場でもあったのです。私の水主町の感想ですが、行政上消滅してしまった地名でも残してくれている名古屋市は、歴史を大事にしている市だなと思います。また名古屋市中村区と南知多町の師崎も地名で繋がりました。このつながりも歴史の面白さのひとつだと思います。

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