江戸時代初期に武士と百姓の喧嘩があった名古屋市中川区喧嘩池塚とは

名古屋市中川区花塚2丁目に残る喧嘩池塚は、江戸時代初期に尾張藩士(武士)と百姓(農民)が争った池の跡です。この喧嘩は死人も出したほど凄まじいものだったと伝わります。

どんな話?

江戸時代初期、現在の名古屋市中川区元中野町(旧中野村)に大きな池がありました。その池は尾張藩の武士たちのお気に入りの場所でした。

登城がない日、武士たちは池のほとりで魚釣りや酒宴を楽しんでいましたが、近くにある百姓たちの畑も荒らすようになりました。畑からスイカを取ってきて割って食べたり。また麦わらを集めてきて池で釣った魚を焼いたり。武士と関わりたくない百姓たちは、最初は見て見ぬふりをして我慢していました。しかし武士たちの態度はどんどんエスカレートするばかり。

そのうち植えたばかりの野菜の苗を踏み歩くようになりました。百姓たちはもう我慢できず、武士たちに講義します。すると酒に酔っていた武士たちと口論になり、とうとう喧嘩になってしまいました。

酒に酔った武士。畑を荒らされた百姓たち。喧嘩は収まらず、とうとう死傷者を出す騒動になってしまいました。武士たちは血まみれになり去っていき、荒れた畑には死体が横たわっていました。

この話を聞いたとの様は、武士たちを追放。争った百姓たちも遠くの島に流されました。残った村人たちは喧嘩のもとになった池を埋め、亡くなった村の若い衆たちの塚を建てました。

そして現地

亡くなった村人を祀った喧嘩池塚は名古屋市中川区花塚町2丁目にあります。会社の敷地内にあり、今回は許可をいただき見学させてもらいました。

塚の裏を見ると寛永二年六月二十二日と刻まれています。江戸時代初期です。この頃は以下のような時代でした。

寛永二年(1625)
・将軍は徳川家光(三代)
・尾張藩主は徳川義直(初代)
・成瀬正成(犬山城主)が死去
・1610年から始まった清須越から15年
・大須の門前町の整備がほぼ終わる

花塚町の地名

喧嘩池塚が残る現在の名古屋市中川区花塚町。この地名の由来を名古屋むかしばなし散歩道の著者・加藤昭(かとうあきら)氏は、『喧嘩の華が「花」となって、地名として今に生きている』と感想を述べています。

私の感想ですが、世に知られていな江戸時代初期の身分制度から起こった争いの塚が、現在も残っているのは驚きました。池もなく詳細もよくわからない、昔話となって語り継がれている話ではありますが、これからも塚は守っていただきたいです。

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