曲尺手とは何?読み方と場所はどこ?3つの設置理由を解説

曲尺手の読みは かねんて です。曲尺手とは主に江戸時代の宿場にあるS字カーブした道のこと。自然に曲げたものではなく、意図的に道を曲げていたのです。なぜそんな事をしたのか?この記事では曲尺手(かねんて)について解説します。

軍事のため

東海道が整備された江戸時代初期は、大坂に豊臣家が健在でした。また江戸幕府は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後も西国の諸大名が謀反を起こし江戸に攻め込まないかを警戒していたのです。

そこで幕府はいろんな対策を施しましたが、軍が街道を通って進軍する時、道を曲げておけば側面攻撃ができるという理由で曲尺手を作りました。

大名行列が会わないため

江戸時代は参勤交代(さんきんこうたい)といって、多くの大名が数年に1度、江戸に行かなければなりませんでした。その際に行列で行くのですが、もし大名行列がすれ違う場合、格下の大名は籠から降りて格上の大名に挨拶しなければならないというしきたりがあったのです。

もしこれが宿場の場合、確かに相手は格上ですが庶民が見ている目の前で籠の前まで行きひざまずき、挨拶をしなければなりません。これは武士にとって恥辱とされ、大名行列を仕切る道中奉行は主君に恥をかかせたいうことで、切腹して責任を取らされるほどでした。

そこで道を曲げておけば向こう側が見えないので、偵察を先に送り向こう側から大名行列が来ないか確認できるのです。ちなみに格上の大名行列がこちらに向かってきていた場合、近くの寺に休憩として入り道を譲っていました。

店を増やすため

曲尺手を作った3つ目の理由は宿場の店を増やすためです。これは東海道御油宿(ごゆしゅく:豊川市)の曲尺手の地図ですが、街道を曲げたほうがその分商店や旅籠など店を多く配置できるからです。

この理由で分かることは、各宿場ごと曲尺手の大きさ、長さが違っているということです。長く大きな曲尺手はそれだけ多くの店を配置できるので、利用客が増えて需要も増えたのではという推測ができます。

名古屋の宿場の曲尺手に行ってみた

現在の名古屋市に残る東海道宿場は鳴海と宮2つです(有松は宿場ではなく間宿)。曲尺手を見るなら名古屋市緑区の鳴海宿跡がわかりやすいと思います。

これが現地。具体的な場所は緑生涯学習センターの東側です。県道がここで大きくS字になっていますが、現在の県道はかつての東海道鳴海宿の曲尺手をそのまま活かして整備されたものです。

かつて私が主催する愛知ウォーキング街道巡りクラブで鳴海宿を見学したことがあります。その時に出た意見の中にも『未だに江戸時代の遺構が残っているのは貴重』という物がありました。古いものは壊してしまうとそれっきりなので、残っていること自体、貴重だと思います。

>>愛知ウォーキング街道巡りクラブの詳細

曲尺手トリビア

愛知県豊橋市にはかつて東海道吉田宿があり、吉田城の城下町を通っていました。吉田城にも曲尺手門がありその石碑もあります。現在の豊橋市曲尺手町はその曲尺手門から付いた地名です。

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